鬼伝説ゆかりの寺 |
今より、1400年前の昔、丹後与謝の大岳〈おおやま〉(大江山)に鬼どもがいて人々を襲い、国中に災いを与えていました。 用命天皇は、この事を憂い、第三の皇子麻呂子〈まろこ〉親王に征伐するよう命令しました。 麻呂子親王は、岩田〈いわた〉・河田〈かわだ〉・久手〈くで〉共庄〈ぐじょう〉の四勇士に一万騎の軍勢を従え、都を出立〈しゅったつ〉しました。途中、伊勢大廟に於いて神剣を授けられ、イナナキの里では龍馬の俊足を獲ました。「これは、日ごろ信仰する七仏薬師が、われわれに授けられたにちがいない」 親王の一言に兵の士気は大いにあがり、千束〈せんぞく〉、萩原〈はぎわら〉、六人部〈むとべ〉を通って、下竹田に着きました。 兵を出迎えた村人は口々に「鬼は、空を自由に飛び廻り、風を起こし激しく雨を降らせたり、妙術変幻自在の力極まりない!」 と、興奮し叫ぶように話します。想像を超えた悪鬼の恐ろしい姿が浮かびあがります。人智の及ぶところではない事を悟った親王は、心をこめて七仏薬師の像を彫りました。その像を兜〈かぶと〉の真向〈まこう〉に立て、勇躍兵を勢揃いさせました。 悪鬼どもとの対決は、激しい戦で、一進一退のくり返しでしたが、薬師如来の不思議な力のご加護をいただき、首尾よく退治することができました。 麻呂子親王は、喜びと感謝に、勅命を仰いで、七カ所に伽藍を建立し、薬師如来像を安置しました。その中のひとつの七堂伽藍に、鎌倉山清薗寺と名付け、一山の本坊を親王院と定め輪奐〈りんかん〉の美(建築物が広大で美麗な様子)を極めました。 中世には、よく栄えましたが一説には、明智光秀の丹波攻略の際、全焼したとも伝えられ、現在は薬師堂(本堂)・親王院(東の坊)・仁王門・鐘楼・石燈籠・総門が往時を忍ばせます。 |
雲はれて みどりに晴る 空みれば るりの光の 月ぞさやけき (麻呂子親王御詠) |
■ 縁起絵巻 |
丹州氷上郡前山郷清薗寺縁起と書き出し、約二間にわたって物語が漢文で書かれている。その後、繊細・優美な絵解きで物語が展開します。 巻物の長さは全長が約七間にもなります。 |
■ 絵 馬 額 |
本堂内正面にかかげてある。古いものでは貞享5年(1688)辰、6月8日に竹田村三ヶ村(上・中・下竹田)によって奉納された事が彫ってある。 むかし麻呂子親王が鬼退治のみぎり戦勝祈願をした故事があり、絵馬はその縁起を描いたもの。 |
■ 総 門(赤門) |
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■ 仁王門 |
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■ 石燈籠 |
仁王門の中央真後ろに建っている。総高2.73m。南北朝時代、貞和3年(1347)銘あり。(県の文化財) 石英粗面岩で造られた八角形のもので、火袋に四仏の梵字、中台側面に散蓮華を彫り、古式の意匠と技術が生かされ堂々とし実に優美である。 |
■ 庭 園 |
親王院の持仏堂前にある枯山水庭園。 本庭を眺めると、まず背後の高谷山〈こうたにやま〉(標高400メートル)の山容が目につく。周囲を囲っている西側の土塀の高さ134センチに対して南側の土塀を80センチと低くしていることからも、外景を意識した借景式庭園であることがわかる。 庭の構成は、隅に重点的な石組をもってきて、前面に空間を広くとっている。 石組の中心は一番奥の守護石の立石(120センチ)で、左にやや振って立てている。これは借景として取り入れた高谷山を、本庭へと導くための手法である。滝の右側には三角形をした山形の蓬莱石(70センチ)を組む。この一石を頂点に、平天石と立石を階段式に組んで築山を構成する。この築山石組は堂々として安定感があり、左の滝石組と合わせて、本庭のもっとも重点的な石組を構成し、かつ優れた庭の造形美をみせている。 一方、東部にかけては築山もゆるくなり空間も広がるが、そこに十六羅漢式の感覚をもった石組があり最後の二石でもって一連の石組を受け止めている。このあたりの石組技術にも非凡なものがみられ、目立たない石組ではあるが、高度な技術を駆使した配石である。 |
(西桂氏著)『「兵庫の庭園探訪」より要約』 |
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■ 夕映えに佇む(?) |
■ 夕映えに佇む(?) |
■ 交通アクセス |
□電車 JR丹波竹田駅下車、徒歩10分 □舞鶴自動車道春日I.Cより福知山方面に約15分 |